名古屋地方裁判所 昭和53年(ワ)1633号 判決 1983年2月14日
原告
松延敬純
原告
松延紀子
右両名訴訟代理人
竹下伝吉
被告
国
右代表者法務大臣
秦野章
右指定代理人
岡崎真喜次
外七名
主文
一 被告は、原告松延敬純に対し金四七〇六万七一四一円、原告松延紀子に対し金一一〇万円、及び右各金員に対する昭和五三年七月一八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用中、原告松延敬純と被告との間に生じた分はこれを二分し、その一を同原告の、その余を被告の各負担とし、原告松延紀子と被告との間に生じた分はこれを一〇分し、その九を同原告の、その余を被告の各負担とする。
四 この判決は、第一項記載の認容金額につき各二分の一の限度において、仮に執行することができる。
事実《省略>
理由
一本件事故の発生とその後遺障害
原告敬純が昭和四九年一二月ころ懲役刑の判決を受け、その刑の執行のため、遅くとも同五〇年三月六日から大分刑務所に収監されており、同五一年一一月ころには、同刑務所内第一工場において、刑務作業として、相馬ら一四、五名の受刑者とともに写植作業に従事していたこと、同年一一月二五日の就業直後、相馬が担当看守から金槌を入手し、原告敬純が中尾の席へ行き説明していたところで、金槌で原告敬純の顔面を殴打したこと、以上の各事実はいずれも当事者間に争いがない。
右争いのない事実に<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができ<る。>
1 原告敬純は、昭和四九年一二月一一日、福岡地方裁判所八女支部において傷害等の罪により懲役六月の刑に処せられたため、他の刑とあわせて二年六月の懲役刑の執行を受けることとなり、佐賀少年刑務所で服役していたが、昭和五〇年三月六日に大分刑務所へ移送され、その後、同刑務所二舎一階一五房(雑居房)に収監され、刑務作業として同刑務所第一工場で写植作業に従事していた。同房(二舎一階一五房)には、昭和五一年五月ころから、原告敬純、相馬、訴外二見農夫也(以下、単に「二見」という。)を含めて六名が収監されていた。
2 同房においては、同年八月ころ二見が懲罰を受けて独居房に入れられ、同年九月に戻つてきたが、このころから、同房内においての自由時間(午後七時から午後九時)の過ごし方の相違をきつかけとして、相馬、二見と原告敬純との間が気まずくなつてお互いに口もきかなくなり、相手の行動、動作が嫌がらせと感じられるようになつていたが、口論や暴行などの行為は何もなかつた。
3 本件事故当日(同年一一月二五日)、同房において起床後布団をたたんでいるときに、原告敬純が鼻歌を歌つていたところ、相馬は、この原告敬純の行為を自分を馬鹿にしているように感じ、日頃の反感もあつて、自分が原告敬純と同様に第一工場で写植作業に従事していることから、工場において原告敬純を殴つてやろうと決意するに至つた。
4 同日午前七時四五分ころ、第一工場では作業開始となつたが、相馬は直ぐに、第一工場担当看守小野武男に対し、下痢をしていると告げて大便の許可を受け、用便札を持つて便所に行き、用便をした。用便中に、相馬は、原告敬純を殴ればどうせ懲罰を受けることになるから工場の道具箱の中にある何か武器になる物で殴つてダメージを与えてやろうと考え、第一工場に戻つた。
5 このとき第一工場担当看守は小野武男から松尾一郎に交代していたが、相馬は、担当台の傍で監視していた松尾看守に用便札を返したのち、許可を受けることなく担当台の前に置いてある器具箱の蓋を開けて、その中を覗いたところ、柄の長さ約三〇センチメートルの金槌があつたので、よし、これで原告敬純の頭を殴つてやろうと決意し、右金槌を右手で器具箱から取り出し、松尾看守に対し、右手に持つた金槌を見せながら「ハンマーを借りますから」と言つた。
6 松尾看守は、相馬の表情などに異常を読み取ることができなかつたことから、金槌借用の理由を尋ねることもなく「よし」と言つて許可した。
7 相馬は、金槌を右手に持つて、担当台から約9.3メートルの距離にある、写植作業場内の同人の作業席の方へ歩いて行き(別紙図面参照)、折から、同人の作業席近くで訴外中尾義晴と写植の割付けのことで話をしていた原告敬純の背後に歩み寄り、「松延」と一声呼びかけ、原告敬純が顔を右回りにして振り向いたところを、右手に持つていた金槌でその顔面中央部を一回強く殴打したため、原告敬純は、顔を上に向けた形で後方へ倒れた。
8 原告敬純は、本件事故のため、同日から昭和五二年一月一二日まで大分刑務所内において、医務課長安部純三を中心として、顔面(鼻根部)打撲裂傷等による治療を受け(その詳細については後に記載するとおりである)、再び刑務作業に従事することのないまま同月一三日仮釈放された。
9 その後、原告敬純は、同月一九日、愛知県江南市の昭和病院において受診し、頭部外傷による右側頭骨陥没骨折と診断され、同月二〇日から同年五月二五日まで入院治療を受け(この間、二月一日に陥没骨折片切除、人工骨充填の手術を受けた)、その後も通院治療を続けている。
10 原告敬純は、同年一二月一〇日ころ、右頭部外傷による右側頭骨陥没骨折の後遺障害として、左半身に痙性麻痺、外傷性癲癇の頻回な発作、小脳失調様症候群(歩行中平衡がとり難く、一キロメートルの歩行不能)の症状が固定し、左上肢の顕著な機能障害及び左下肢の起立歩行障害により身体障害者福祉法別表第三級該当の認定を受けた。(但し、右認定は同原告に労務に服することは不可能と認められる後遺障害が存在するとするものであるが、<証拠>によれば同原告は前記病院退院後親戚の者の好意により企業の従業員寮こ舎監の仕事を斡旋され、自らも就業の意思を有していたところ、同原告に癲癇発作のあることが知れて結局その話が取り止めになつたいきさつを認めることができ、また、同原告が書字の能力を失つていないことはその提出にかかる<書証>によつて明らかであり、前記就職の妨げとなつた癲癇発作も<証拠>によれば一日二回程度各五ないし一〇分程度の小発作であると認められることに鑑みれば、その労働能力はなお特に軽易な労務に堪える限度において残存しているものと認められる。)
なお、本件全証拠を検討しても、原告敬純が、本件事故以外に、右側頭骨陥没骨折を発生しうる事故に遭つたことを窺わしめるに足る証拠は全く存在せず、右認定事実によれば、本件事故において、原告敬純は、突然、金槌で顔面中央部を強打され、仰むきに倒れたと認められるところ、経験則上、人が仰むきに倒れる際、頭部を強打することがありうることを認めることができるのであるから、相馬が金槌により原告敬純の顔面中央部を強打した行為により、原告敬純に、鼻根部裂傷の他、右側頭骨陥没骨折を発生せしめたと推認するのが相当である。
二被告の責任(看守の過失)
1 まず、本件事故が、被告国の公権力の行使にあたる刑務所職員による拘禁中において、受刑者の改善・矯正教育としてなされ、かつ、刑務所職員(看守)の監視下における刑務作業中に発生したものであることは当事者間に争いがない。
2 ところで、いうまでもなく刑務所における拘禁は強制力を用いて受刑者の身柄を刑務所内に抑留して行なうものである以上、在監中の受刑者の生命、身体の安全を確保することについては、国ならびに当該刑務所の職員は万全の意を用うべきものというべきであつて、このことは監内におけるいわゆる刑務作業に在監者を就業させている場合も同様である。また、収容されている受刑者がA級受刑者(犯罪傾向の進んでいない者)であつて、これに対する処遇基準が被拘禁感の緩和に努めて受刑者の自律性を養い、できるだけ自治活動をとり入れるとされる場合であつても、変わるものではないと考えられる。
3 そこで、右観点から本件事故の際における金槌の貸与方法について松尾看守の過失の有無を検討する。
4 大分刑務所第一工場内では写植などの四つの作業を実施していたこと、作業用道具類を収納保管する錠付きの器具箱が看守の位置(担当台)の傍に設置されていたこと、看守は自ら鍵を所持して道具類を管理し、毎日、就業前と作業後にこれを点検して保管していたこと、作業に常時必要な道具は、作業開始前に担当看守から各作業班の班長たる受刑者へ一括して貸与し、班長から他の受刑者に貸し出しており、作業終了時に班長を通じて返却し、点検の上収納されていたこと、その他の道具については、必要な場合に受刑者が個別に直接担当看守に申し出て貸与を受けることになつていたことは、いずれも当事者間に争いがない。
<証拠>を総合すると以下の事実を認めることができ<る。>
(一) 作業中においては、担当看守は、道具類の所在を明らかにするため、器具箱に施錠しておくのを原則としていたが、これは受刑者を対象としてのことであつた。但し担当看守が傍にいる場合には、施錠することなく、器具箱に蓋をするだけのこともあつた。
(二) 従事している作業自体に必要とされない道具を、受刑者が借りるについては、通常、必要な場合に、担当看守に対してその使用目的を告げて許可を求め、担当看守の許可を受けたうえで器具箱から道具を取り出して使用していた。担当看守は、受刑者が使用目的を告げないで許可を求めた場合においても、床板・机等の修理のように使用目的が明確な場合や当該受刑者の表情や挙動に不審がない場合には許可を与えることがあるが、許可を受ける前に受刑者自らが器具箱から道具を取り出すような行為は許されていなかつた。
(三) 相馬や原告敬純が従事している写植作業においては、金槌は必要のない道具であつた。
(四) 本件事故当日午前七時四五分ころ、第一工場において作業開始となつたが、相馬は直ぐに小野看守の許可を受けて便所へ行つた。午前七時五〇分ころ、第一工場担当看守が主任の小野武男から交替担当の松尾一郎に交代した。数分後、相馬は便所から戻り、担当台の松尾看守に用便札を返したあと、許可を求めることもなく、勝手に傍の器具箱の蓋をあけて金槌を取り出し、その後においてはじめて松尾看守に対し、金槌を見せながら「ハンマーを借りますから」と言つた。松尾看守は、相馬に対して金槌借用の目的を尋ねることもなく、また、無断で器具箱の蓋をあけて金槌を取り出したことに対して注意を与えることもなく、相馬の表情に異常を看取ることができなかつたことから「よし」と言つて許可した。
以上の事実が認められる。
また、金槌が、その用法によつてただちに人を殺傷しうべき、危険性を有する道具であることは、当裁判所に顕著である。
5 右4項の事実から判断するならば、金槌を借り受ける際の相馬の挙動には不審なものがあつたと言わねばならない。すなわち、第一に、便所から工場へ戻り、担当台へ用便札を返す際に金槌を借り受けようとしたことである。金槌は、写植作業には不要な道具であつて、時折、工場内の床板や机の修理のために使われていたにすぎない。そして、そのような修理行為は、通常、作業中に修理すべき箇所を発見して行なうものであると考えられるところ、本件事故当日、相馬は作業開始直後に便所へ行つているのであるから(もつとも便所へ行く許可を与えたのは交代前の小野看守であるが、松尾看守にしても、作業開始後わずか五分で交代したのであるから、この朝、相馬がほとんど作業をしていないことは認識し、あるいは認識できる状況であつたと推認される)、修理すべき箇所を発見したために金槌を借り受けようとしたと考えるには根拠がない。第二に、許可を受ける前に、無断で器具箱の蓋をあけて金槌を取り出していることである。本来、作業中でも器具箱には施錠をしておくのが原則であつて、担当看守が傍にいる場合には、便宜上、無施錠の場合があるにすぎず、しかも右取扱いが受刑者を対象としてのものであることからすれば、相馬の前記無断で金槌を取り出した行為は明確な規律違反である(ただ、このとき、器具箱の傍に松尾看守がいたこと、そして相馬が右行為のあとで松尾看守に許可を求めていることからすれば、相馬の行為は馴れからくる単なる手順前後であると言いうるかもしれない。しかし、受刑者の生命・身体の安全を確保すべき注意義務を負う看守としては、このような馴れに親しんではならないことは言うまでもないことであろう。なお、被告は、A級受刑者に対する処遇基準が被拘禁感の緩和を通して自律心の養成にあることを主張しているが、規律違反を看過することが自律心の養成に利するものでないことは明らかである。)。
したがつて、受刑者の生命・身体の安全を確保すべき注意義務を負いながら、刑務作業を監視し、作業用道具類を管理、保管している松尾看守としては、その用法によつては人を殺傷しうべき金槌を借り受けようとしている相馬において、前記のような不審な挙動が見受けられたのであるから、その貸与の許可を与えるにあたり、少なくとも、相馬に対して、右不審な挙動を問い質し、その応答如何によつては貸与不許可にすべき注意義務を有していたものと認められる。しかるに松尾看守は、許可を求めた相馬の表情に異常を読み取ることができなかつたことから、安易に、前記のような不審な挙動を問い質すこともなく、許可を与えたのであるから、金槌貸与につき過失があつたと認めざるをえない。
6 よつて、その余の点につき判断するまでもなく、原告敬純が相馬から金槌によつて殴打されたことについて、被告には責任があると認められる。なお、金槌の殴打による原告敬純の被害は、言うまでもなく相馬の故意行為が直接の原因であるが、前記松尾看守の過失もその一因となつていることは否めない。
三被告の責任(医療過誤)
1 在監者に対する医療については、拘禁を行なう国及び刑務所職員においては、法令に従い在監者の行動の自由を制限する反面、疾病にかかつた場合及び負傷した場合には、症状に応じ適切な治療をなすべき注意義務があることは明らかであるところ、原告らは、大分刑務所職員(医療担当者)が、本件事故により負傷した原告敬純に対して適切な治療をせずに放置し、その負傷に対する手術及び治療を手遅れとした過失があると主張するので検討する。
なお、在監者の医療に関する国及び刑務所職員の行為が、国家賠償法一条にいう「国の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行う」行為に該当することは明らかである。
2 まず、原告敬純の負傷に対する大分刑務所内での治療行為の態様を考察するに、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。
(一) 本件事故当時(昭和五一年一一月ころ)における大分刑務所の医療体制は、医務課に職員五名を配置していたが、そのうち安部医務課長(以下、「安部医師」という。)のみが医師の資格を有しており、しかも安部医師が内科の専門であつたことから、診療は内科的な診療行為を中心にし内科の専門的な診療行為は極めて簡単なものしか行なうことができず、もし内科以外の専門的治療行為を必要とする患者が発生した場合には、適宜、大分刑務所近辺の病院、医院へ送つて治療をしていた。もつとも医務課内にレントゲン設備を有しており、安部医師はレントゲン撮影をすることができた。
(二) 本件事故直後(同年一一月二五日午前八時ころ)、原告敬純は他の数名の受刑者により医務課処置室へ運ばれ、「受刑者が喧嘩をしてハンマーで鼻を殴られた」との電話を受けて駆け付けた安部医師が診察したところ、鼻根部に四、五センチメートルの裂傷があり出血していたので、自らは手の施しようがなく、大分市内の仙波外科医院(内臓外科が専門)へ連絡したうえ、看護助手に命じ、連れて行かせた。なお、このとき、電話の連絡等による鼻部のみの負傷と思い、脈搏と瞳孔を診たのみで、問診や他の部分の触診などは行なわなかつた。
仙波外科医院では鼻部打撲裂傷、鼻軟骨粉砕と診断して創口縫合(一〇針)の処置をした。
午前九時半ころ、看護助手が原告敬純を連れて帰つたが仙波外科医院からの連絡、指示はなく、また、安部医師もとくに仙波外科医院に連絡をとることはなかつた。安部医師としては縫合部分が化膿せずに癒着すればよいと考え、時期をみて抜糸することとし、ヘスナ(止血剤)、クロマイ(化膿止め)、セデス(鎮痛剤)を投与し、アドナAC(止血剤)、カチーフ(止血剤)を注射して、病舎休養とした(なお、以下において診療者の記載のないものは安部医師の診察、治療行為である。)。
午後一時三〇分、全身状態に変化はなく、血圧は一三〇―八〇、脈搏七〇であつた。なお出血があつたのでアドナAC、カチーフを注射した。
午後三時、両肩の疼痛の訴えがあつたので、ペンタジン(鎮痛剤)を注射した。
なお、この日(事故当日)から出所時に至るまで、原告敬純に対し、受傷当時の状況を尋ねることはなかつた。
(三) 一一月二六日午後一時、血圧一三〇―八四で、頭部、項部(首の後ろの部分)、両肩(とくに右側)の疼痛を訴えるので、ペンタジンを注射し、セデスを投与した。
(四) 一一月二九日午後一時、原告敬純は、両肩と項部の疼痛を強く訴えて、注射を要求した。巻いている包帯をとつたところ、右耳殼後部(頭蓋骨のある部分)に赤く皮下溢血を認めた。痒がつて掻いたのか、あるいは転んだときに打撲したのかと思つた。不眠を訴えるので、ネルボン(催眠、鎮静剤。夜間服用分)を投与した。
午後九時、発熱39.5度、脈搏は九六でよく緊張しており咽頭が発赤していた。全身の疼痛と左腕麻痺を訴えた。発熱は風邪のせいかとも思うが、左腕麻痺等は鼻根部打撲による頭蓋底骨折が原因ではないかとの疑いを持ち、精査の必要を感じた。ビクシリン(抗生物質)、キモタブ(消炎酵素剤)、ヘスナ、デカドロン(副腎皮質ホルモン)、ネルボンを投与し、ペンタジンを注射した。
(五) 一一月三〇日午後一時、体温39.1度、ビクシリン、キモタブ、ヘスナ、デカドロン、ネルボンを投与し、アドナAC、カチーフを注射した。頭部打撲の疑いをもつた。
(六) 一二月一日午前一一時一五分、疼痛を訴えたので、看護助手がセデスを投与した。
午後一時、体温38.5度、血圧一二〇―八〇、右腕の麻痺を訴えた。疼痛はあまり訴えなかつた。ビクシリン、キモタブ、ヘスナ、デカドロンとネルボン(夜間服用分)を投与し、アドナAC、ルチノン(血管補強剤)を注射した。
(七) 一二月二日午後一時、アドナAC、ルチノン、リナーセン(催眠、鎖静剤)を注射した。
(八) 一二月三日、鼻根部打撲による頭蓋底骨折等の疑いもあり、もう少し専門店に診る必要を感じ、大分市畑中所在の永富整形外科病院長永富整彦医師に診察を依頼した。
午後二時、縫合部の抜糸を行ない、ベンタジンを注射し、疼痛時のためにセデスを投与した。
午後二時三〇分、永富整形外科病院よりレントゲン技師が来所し、肩関節部、頸部、頭部のX線写真を撮影していつた。なお、このとき立会わなかつた。
(九) 一二月六日午前一一時二〇分、永富整彦医師が来診し、左頸部から左腕にかけて若干麻痺症状を認めた。なお、安部医師は不在であつた。看護助手がリナーセン、スルピリン(鎮痛剤)を注射した。
なお、その後も、永富整彦医師から安部医師に対して指示あるいは説明はなく、安部医師もとくに尋ねることはなかつたし、X線写真の結果も聞かなかつた。ただ、安部医師は、脳の障害(頭蓋底骨折等による)を疑い、大分県立病院の永富裕文医師(脳神経外科が専門であり、永富整彦医師の弟)に診察を依頼しようと考え、永廷整彦医師に「弟さんにもお願いします」と依頼し、また、永富整形外科病院への患者入院を希望したが、入院については、もう部屋がないからと断わられた。
(一〇) 一二月一〇日午前一〇時、疼痛を訴えたので、看護助手がセデスを投与した。その後、頭痛による不眠を訴えたので、看護助手がセデス、ネルボンを投与した。
(一一) 一二月一一日、頭痛を訴えたので看護助手がセデスを投与した。
午前一一時三〇分、永富裕文医師が来診し、次のように診断し、医務課診療録に記載した。なお、安部医師は不在であつた。
「病名・頭部外傷、頸部損傷
1) 両眼瞼、右耳介後部の溢血斑があることにより頭蓋底骨折?が疑われる。また、眼球振盪(右向きにひどい)、左聴力障害があり、耳鳴り、めまい、吐気はそのためであろう。
2) 左上肢、頸部、後頭部(左)、左肩部の運動、知覚障害は左脊髄神経の損傷によると思われる。
以上により、受傷後三週間は安静、以後は理学療法が必要である。手術の適応はない。」
そして、永富裕文医師はセファドール(鎮暈剤)、コレキサミン(動脈碑化用剤)、クリアミン(偏頭痛剤)、セレナール(精神、神経用剤)、ムスカルム(筋弛緩剤)とセデス、ネルボンを投与した。
なお、右記以外に、永富裕文医師から安部医師に対し、指示、連絡はなく、安部医師もとくに尋ねることもなかつた。
(一二) 一二月一三日午後一時、ネルボンを投与した。
(一三) 一二月一四日午後二時、便秘のため、オートール(下剤)を投与し、また、セデスも投与した。
(一四) 一二月一六日午後二時、頭痛、肩痛を訴えたのでセデスを投与した。なお、一人で便所に行けるようになつた。
(一五) 一二月一七日午後二時、不眠を訴えたのでネルボンを投与した。
(一六) 一二月二〇日午後一時、なお不眠、頭痛を訴えた。
(一七) 一二月二一日午後二時、頸部に固定のためタートルネックをつけた。
(一八) 一二月二二日午後二時、左腕の運動やや可能となつた。オートール、セデスを投与した。
(一九) 一二月二七日、セファドール等を投与した。
(二〇) 一二月二九日、永富整彦医師が来診した。
(二一) 昭和五二年一月四日午後、左腕を水平位まで挙げることが可能となつた。
(二二) 一月七日、セデスを投与した。
(二三) 仮出所(一月一三日)にあたり、安部医師は永富整彦医師に相談したところ「薬を与えておけばよい」との返事で、他の医師とは相談しなかつた。
3 ところで、前示(第一項)判断のように、原告敬純の後遺障害の原因たる右側頭骨陥没骨折は本件事故の際に発生したものであると認められるところ、<証拠>によれば、次の事実が認められる。
昭和五二年一月二〇日(昭和病院入院時)において、原告敬純の右側頭部には、触るとはつきりとわかる陥没があり、レントゲン写真(単純)により明瞭な陥没骨折が認められ、測定すると直径約三センチメートルの範囲で最深部は約一五ミリメートル陥没しており、この右側頭部陥没骨折に対しては何の治療もされていなかつた。
陥没骨折の場合、陥没の深さや衝撃の強さにもよるが(たとえば五ミリメートル程度の陥没であれば一月以上経過した後での骨切片除去でも完全治癒しうる)、陥没直後に骨切片を除去すれば圧迫されていた脳実質が弾力性により回復し治癒しうるが、一月以上経過した後では、圧迫され続けた脳実質が機質的変化を起こし、もはや回復しえない状態となる。本件のように一五ミリメートルも陥没した場合には、衝撃が強度であるため、直ちに骨切片を除去しても完全治癒することは不可能であつたが、ある程度は回復したと考えられる。
4 よつて、以上認定の事実に証人吉田孝の証言を加えて、大分刑務所安部医師の診察行為における過失の有無について判断するに、遅くとも昭和五一年一一月二九日に、原告敬純の右耳殻後部に皮下溢血を認め、39.5度の発熱があり、全身の疼痛と左腕麻痺を訴えた時点において、強く頭部外傷を疑い、転医させるか、直ちに専門医を応診させるか、あるいは自ら頭部のレントゲン撮影をするなどの措置をとるべきであるのに、漸く同年一二月三日に至り、永富整彦医師に診察を依頼し、同月六日に来診を受けたものの、これに立会わず、しかも診察の結果について連絡を求めることなく、また、レントゲン撮影の結果について尋ねることもせず、さらに、同月一一日永富裕文医師の来診を得たものの、これに立会うことなく、永富裕文医師が診療録に記載した「手術の適応はない」記述を軽信し(同記述は、側頭骨陥没骨折に対しての骨折片切除等の手術を意識しているのではなく、頭蓋内血腫に対する血腫除去の手術を意味しているものと認められる)、同医師に連絡を求めることもなく、単に痛み止め、縫合部分の化膿防止程度の治療のみを行ない、結局、原告敬純が仮出所に至るまで、レントゲン撮影すら行なわず(永富整彦医師が行なつているが、安部医師は結果もきいていない)、右側頭骨陥没骨折を発見できなかつた過失が認められる。
なお、ある程度の期間内(約一月)に発見し骨折片を除去すれば、完全治癒はできないとしてもある程度の回復は見込めたのであるから、その範囲において、右安部医師の医療過誤と原告敬純の後遺障害との間には因果関係が認められる。
四したがつて、大分刑務所松尾看守の金槌貸与の際の過失と同安部医務課長の医療過誤により、被告は、原告敬純の負傷及び後遺障害につき責任があると言わざるをえない。
五損害
(一) 治療費
<証拠>によれば、原告敬純は、昭和五二年一月一九日、昭和病院外科で受診し、同月二〇日から同年五月二五日まで同病院に入院して治療を受け、その後も同病院で通院治療を続けていたことが認められる。しかしながら、右事実以上に、原告敬純が支払をした治療費用を認めるに足りる証拠は全くないので、治療費用を損害として認めることはできない。
(二) 後遺障害による逸失利益
一項において認定した事実からすれば、本件事故による傷害及び医療過誤のため、原告敬純は、右側頭骨陥没骨折の後遺障害として、左半身に痙性麻痺、外傷性癲癇の頻回な発作、頻繁な頭痛、小脳失調様症候群(歩行中平衡がとり難く、一キロメートルの歩行不能)の症状を残しており(昭和五二年一二月一〇日ころ固定)、特に軽易な労務以外の労務に服することは不可能であること、また、本件事故に遭うまで、原告敬純は刑務作業として写植作業に従事しており、健康体であつたことがそれぞれ認められ、そして、<証拠>によれば、原告敬純は昭和一五年六月一四日生まれの男子であることが認められる。以上の事実を総合勘案するならば、原告敬純は、昭和五二年二月一〇日(後遺障害固定時。原告敬純は三七歳。)以降稼働可能と考えられる六七歳までの三〇年間を通してその労働能力の八〇パーセントを喪失したものと認めるのが相当である。
ところで、原告敬純は本件事故時において大分刑務所に収監中であつたのであり、その学歴の点について何らの主張・立証がないことからしても、その後遺障害固定後の収入は、男子労働者の平均賃金によつて算出せざるを得ない。そして昭和五一年度賃金センサス第一巻第一表、産業計、企業規模計、学歴計による平均年収は金二五五万六一〇〇円であるから、これを基礎として、中間利息の控除につきホフマン式計算法を用いて算定すると、次式のとおり金三六八六万七一四一円となる。
255万6100×0.8×18.029=3686万7141(円)
なお、原告敬純は仮出所時(昭和五二年一月一三日)からの逸失利益を求めているが、後遺障害固定時までの逸失利益は休業損害としてとらえるべきところ、原告敬純について、仮出所時において既に就職が内定していたなど、後遺障害固定時までに職を得る蓋然性が高かつたと認めるに足りる証拠は存在しないから、休業損害を認めることはできない。
(三) 慰藉料 金八〇〇万円
(四) 弁護士費用 金二二〇万円
(五) 原告紀子の損害
原告紀子が昭和三八年一一月二七日原告敬純と婚姻したことは当事者間に争いがなく、前記認定のように原告敬純は昭和一五年六月一四日生まれであり、前掲甲第一号証によれば、原告紀子は、昭和一八年一〇月七日生まれであり、原告敬純との間に二児を儲けたことが認められるところ、<証拠>を総合すれば、原告敬純は、前記認定の後遺障害のため性交能力を喪失ないし著しく減退させ、妻である原告紀子ともはや夫婦としての性的生活を営むことは不可能になつたことが認められる。
妻は、夫が生命を害された場合だけではなく、身体を害された場合にも自己の権利として慰謝料の請求をすることができるが、ただ身体傷害の場合には、生命を害された場合にも比肩すべき、またはこの場合に比して著しく劣らない程度の精神的苦痛を受けたときに限つて、慰謝料の請求をし得るものと解すべきところ、右認定の事実及び前記認定の原告敬純の後遺障害の内容からすれば、原告紀子は、夫の生命を害された場合に比して著しく劣らない程度の精神的苦痛を受けたものと認めるのが相当である。よつて、原告紀子は、自己の権利として慰謝料請求をし得るものと言わなければならないが、その額は、前記の事情からすると、金一〇〇万円をもつて相当と認められる。
また、弁護士費用の額は金一〇万円とするのが相当である。
六結論
以上によれば、原告らの本訴請求は、国家賠償法一条一項による損害賠償請求権に基づき、原告敬純につき金四七〇六万七一四一円、同紀子につき金一一〇万円、及び右各金員に対する不法行為の日以後である昭和五三年七月一八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を適用し、仮執行の宣言は各認容金額の二分の一の限度において相当と認め、同法一九六条一項を適用し、仮執行免脱の宣言は相当でないのでこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。
(吉田宏 伊藤保信 藤田敏)